summer

土曜日の朝はびっくりするくらいの激しい雨の音で目が覚めた。新聞を読んでいると、昨日の雨は関西の方でもかなり降ったらしく、雷の事故が何件か起こったらしい。とある映画で「この場で雷に撃たれるのは、宝くじで一等を当てるよりも稀だ」という発言をしている数学教授がいた記憶があるけれど、あれは本当なのだろうか。雷というのはよく落ちている、そんな気がする。

激しい雨は、夏の終わりを知らせるものなのだろうか。今年の夏は例年に比べるとそれほど暑くない気がする。蝉もあまり鳴いていない。

8月もあと2週間あまり。残暑が厳しくないとうれしい。


  • 最近のBGM

    David Byrne Miss America

    なんだか夏っぽくって。


    コトリンゴ - 恋とマシンガン

    涼しげでしょう。


    Twin Sister - All Around and Away We Go

    昼下がりにぼんやりとしましょう。


  • 最近見た映画

    5月

    ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーヴェロニカ・フォスのあこがれ

    ティム・バートンビッグ・フィッシュ

    ブラザーズ・クエイブラザーズ・クエイ短編集vol2』

    6月

    ウディ・アレンミッドナイト・イン・パリ

    ダムタイプ 「pH」

    『ダーク・ナイト』(2回目)

    ダムタイプ 「OR」

    7月

    ダムタイプ 「メモランダム」

    ジョン・カサヴェテスアメリカの影』

    ティエリー・ドゥ・メイ 『ローザス・ファーズ・ザ・フィルム』

    アルフレッド・ヒッチコック 『サイコ』

    ジョナス・メカスリトアニアへの旅の追憶』

    8月

    ティム・バートンチャーリーとチョコレート工場

    阪本順治大鹿村騒動記』

    ポール・トーマス・アンダーソンパンチドランク・ラブ



    ビッグ・フィッシュ』と『サイコ』、『ミッドナイト・イン・パリ』、『チャーリーとチョコレート工場』がとてもよかったです。

  • no title

    「昨日やったことを話してやろうか。エドガーの墓を掘っている寺男に、キャシーの棺をどけさせて、蓋をあけてみたんだ。キャシーの顔を見たとき(今もまだ生きている頃のままだったよ)一緒におれも入ろうかと思った。そうしてじっと動かずにいたから、寺男は困っていたが、空気があたると様子が変わってしまうと言う。だからおれは、棺の片側をたたいてゆるめてから土をかけた。エドガーが棺に入るほうの側じゃない。ちくしょう、エドガーなんか、鉛でかためて埋めてやればよかった。それからおれは寺男に金をやって、おれがそこに埋められる時が来たら、今ゆるめた板をはずして、おれの棺の横板もはずすように言いつけたんだ。はずせるように作らせるつもりだからな。そうしておけば、エドガーのやつがこっちにくずれてくる頃には、おれたち二人は一つになって、区別できなくなっているわけさ!」
    
    
    エミリー・ブロンテ 嵐が丘
    


    雨がしとしとと降る中でぼんやりとする考え事は一つ。キャサリンヒースクリフは結ばれたのだろうか、ということ。五月の頭から読み始めた『嵐が丘』はようやくクライマックスを迎えた。久しぶりに読んだ小説は『百年の孤独』以来の感覚で、古典だとか言うけれどそんなに面白くはないのだろうなという小さな乾いた期待を大いに裏切り、ああこれは、と何度もため息をつく結果となり汗を握った手は未だにしっとりとしている。何度も訪れる過去の出来事のフラッシュバックは本当に巧みで、この作品のみを残した著者のことをもっと知りたいという気持ちになっている。カフェの隣りと後ろで誰々と誰々が付き合ってだとか話している若い女性の話の内容とのギャップがなんとも言えない。彼女たちもいつか夜な夜な歩き回る亡霊のようになってしまうような恋というやつをするのだろうかしないのだろうか、それともする必要なんてないのだろうか。

    思い返せば五月の初めに偶然知り合ったかつて詩人だったという年配の女性の口から出て来た作品がこの『嵐が丘』で、そういえば小説をたくさん読んでいた研究室の先輩がしきりにこの作品のことを口に出していたなあと思い返して本屋で購入してから連休中に読み始めたのだった。「ヒースクリフがね…」と化粧をなおしながら口にする姿は下北沢の小さな飲み屋の暗い照明の下でなんとも艶っぽく、居合わせた人々は皆、お世辞ではなく本当にお若いですねと何度も口にしたのだった。彼女の話によると、歳というのは否応なく取ってしまうが、あまり重要ではないらしい。要は気持ちの問題だという言葉はこれからも憶えておきたい。

    話は戻ってキャサリンヒースクリフ。最近はこういう小説を読むと友人たちのことを思い浮かべることが多くなった。M君は紆余曲折を経てとてもよい人と出会ったようだし、Kは先日「結婚するぜ」と電話してきたし、なんだか自分は相変わらず落ち着きがないなあとぼんやりすることがままある。それでも20代の前半のときのような慌しさや落ち着きのなさは随分と消え去ってしまったように思われるけれど。これは、あれもこれもと分別なく手をつけるのではなくて、一つ一つを慎重に大切に選択するようになったからだろう。一つの選択は複数の選択の犠牲の上に成り立っているのではなくて、一つの意志の上に存しているのではないだろうか。意志のない選択こそが落ち着きのなさや無分別を生むのではないか、なんて年寄りじみたことを最近はつらつらと考えている。M君もKも、そうした意志の上で行った選択であってほしいし、彼らには是非とも幸せになってほしい。なんだか他人の幸せを祈ってばかりでは詮無いので、出来れば自分も幸せになれればなおよい。そんな少しだけ欲張りなところも歳を取ってから身についたものなのだけれど、本人は割とそういう態度を気に入っていたりする。そう、気に入っていたりするのである。

    no title

    ようやく暖かくなったと思ったらまた寒い、そんな毎日が続いている。待ち遠しい春のことを思い浮かべている夜。近所の神社の梅の花は見事に咲き誇っている。「にほひおこせよ梅の花」と詠った学問の神様に朝夕と祈るのは日々の暮らしが穏やかであること、それとほんの少しの刺激的な時間。世間が大きな災害に右往左往する一年、なるべく今までと変わらずに過ごそうと思って過ごした結果、順繰りと戻ってきた場所は見覚えのある場所。そういえばここにいた、ここに来た、ここから来た、ここに戻る、なんてまるでそれは紐解いてみれば一本の綱であったかのような話。拍子抜けはしていないけれど。

    ようやく自宅から必要のないものをほとんど捨て去った。今日は最後の大物、ブラウン管式テレビ。上京した当時に大学で知り合った友人と秋葉原で購入したのはずいぶんと昔の話。あの頃は本当にどうしようもなくて今だってどうしようもないのだけれど、幸せか不幸せかと問われればわりと幸せで、それはたぶんなるべく必要なものだけに目を向けるようになったからかもしれない。足りない足りないと頭の中を言葉が右から左へと駆け抜けていた頃は必要のないもの(結果的にそれは「欲しいもの」だった)や過ぎ去った過去のことを嘆いていたような気がする。こぼれたミルクに泣いていても仕方がない。

    少しずつ戻っている感覚がよい方向に導いてくれるのかどうかは分からないけれど、結局やっぱり自分を信じるしかないよなあ、と思っている。誰も答えを知らない問いに答えるのが自分のやるべきことなのだろう。それを今年はストイックに続けていきたい。


    MATT AND KIM - DAYLIGHT

    no title

    早くも2012年がひと月過ぎた。予定通りに進んでいないこともたくさんあるけれど、それもまた仕方がないと思うようになった。大人になったのかどうかは分からないけれど、どうしようもないことはそっとしておくしかないのだとおもう。人の気持ちは変えることが出来ないし、いや、正確に言うと、変えようとしても変わらない。そういういくつかの事柄について学んだことがいくらか肩の荷を軽くしてくれたような気がする。そうやって日々を過ごしていくこともきっと大切なのだろう。大切なのだと信じている。

    相変わらずときどき映画を見たり演劇を見たりしている。中華料理屋のテレビでやっていたアレンのマッチポント、カフェで流れていたカーウァイのマイブルーベリーナイツ。なんだか適当にぼうっと眺めていたのだけれど、いくつかの言葉に惹かれた。運命には従うこと。何かを忘れるためには、何かに熱中すること。アレンの映画からは前者を、カーウァイの映画からは後者をいつも教えられる。

    休日はダムタイプのS/N。今は亡き男(いや、女なのだろうか、どちらなのだろうか)が映る画面を狭い部屋に押し込められた満員の観客と一緒にしばらく眺めていた。90年代の雰囲気がこれでもかというくらいに伝わってきて、少しだけ胸にこみ上げるものがあったが、懐古や追憶のようなものではなくて、ただそれは過去の事実のように感じられて。事実と現実は違うし、インターネットと現実も違う。両者が交じり合う場所で生きてきた時間は否定されるわけではなくて、やはり事実として残るだけなのだろう。こうやって書きつづけてきた日記はやはり現実ではなくて、でも事実。六年間書き続けてきたことは、事実としてここに現存している。

    話は戻ってダムタイプ。舞台の上で繰り広げられるのは、生(性)について。あるいはその境界についてなのだろうか。逃れられないものから逃れようとする人々や、逃れていくものを追いかけていく人々。それこそがまさに生(性)で、そうした現実から逃れようとしてきたのがこれまでの自分だったのだろう。これからも逃れようとするのかもしれないけれど、少なくとも現実を見つめることは出来るようになってきたようにおもう。きちんとした問いを立てて、きちんとした解答を与えること。それが出来ないのでは、先が見えない。

    生活のこと、お金のこと、日常の些事、街ゆく人々、頭を下げる人、煙草を吸う人、携帯電話をいじる人、電車でゲームに熱中している人、スーツを来て走る人、交番を訪れる中国人、いつもマスクをしている人、コートを褒めてくれる人、渋谷に落ちていた手袋、パソコンのバッテリー、炊飯器、就活生、大学生、スカイツリー、偉そうな人、謙虚な人、無口な人、おしゃべりな人、階段で足を踏み外して、なんだかすっかり落ち着いて、左手の薬指の指輪だとか、少しずつ増える白髪だとか、割れた爪先だとか、置いてけぼりの子供だとか、かっこいい眼鏡だとか、積み上げられた書類だとか。

    そういうたくさんのものが巡り巡って、相も変わらず普通の一日を過ごしている。そうやって明日が来ることを、こうやって今日も書き残すだけ。書き残すことだけでも何か少しは価値があるのではないだろうか。そんな風に自問自答している。